社寺と文化財

火幡神社

火幡神社と呼び、郡史には祭神詳でないが里人が次のように称すと記している。

  • 祭神 天照大神 天児屋根命 玉依姫命 息長帯比売命 品陀和気命
  • 本殿 打越流造 桁行3.65m 梁間1.2m 向拝出2.43m 檜皮葺 唐破風付

 火幡神社志に、初め火之戸幡姫命一神を鎮祭した。大同元年(806年)20戸を賜い貞観元年従五位上に叙せられた。延喜式神名帳に名神大社として挙げている火幡神社は即ち本社であるといい、後ホンダワケ神・神功皇后・タマヨリ姫命・天照大神の五神を漸次合祀したと。神名帳考証にも日留女村火之戸幡姫命とあり神社の名から考えても当然のように思われる。火之戸幡姫については日本書紀神代巻下の天孫皇臨のくだりに、タカミムスビノ尊の児(ミムスメ)火之戸幡姫(ホノトハタヒメ)とある。記紀にはタカミムスビノ尊を、高天原に生(ア)れます第二番目の神とされている。
 本社には天文22年銘の華表額(正八幡宮)があったという。

白山姫神社(畠田字尼寺)

 香塔寺(高堂寺)の側にあり、同寺とのつながりが考えられる。

  • 祭神 伊弉諾尊・伊弉冉尊
  • 社殿 流れ造り、拝殿は昭和3年4月棟上。
  • 境内末社二社・春日神社・白山権現

厨神社(畠田字尼寺)

 般若院の西方にあり、祭神御饌津大神(保食命)は食物の神であるから寺の厨に祀ってあったのであろうか。

水神社

 祭神 罔象命(ミズハノミコト)、罔象命は伊弉冉尊が軻遇突智命を産みて、かんさりまさんとする時うみ給うた水の神である。(日本紀神代の巻)

般若院(融通念仏宗 畠田字尼寺)

 大字畠田は尼寺・送迎・小黒などに分かれているが、一つの大字に七つの寺があるということは珍しい。しかもこの般若院のある尼寺は至る所といってよいほどに古瓦が散布し、それらが奈良時代とみられるものであるから偉いことである。

  • 礎石 般若院の門をくぐると左に礎石が二個あり、一個は直径70cmの円形繰出しがあり、奈良時代を物語っている。礎石の位置は動いているらしいから直ちに建物のプランなどを想像することもできないが、従前ここの瓦として伝えているものの中、古きは奈良時代初期或いは白鳳末期(藤原宮時代)に及ぶものがあり、礎石と合わせ創立年代が推定されるのは嬉しい。
  • 建築と彫刻 現存の主な建物には本堂と毘沙門堂とがあり、本堂は阿弥陀如来立像(高さ66.5cm)を本尊とし、毘沙門堂は昭和6年の建築で毘沙門天立像(高さ1.73m)を本尊とする。この毘沙門天王は昔片丘荘大宇堂にあった四天王の一つで、戦火のため他の三体は焼失し、この一尊が僅かに難を免れ、ここに移されたと伝えている。この像の銘など詳しいことは志都美村黎明の項に書かれてある。ほかに地蔵菩薩、聖応大師、法明上人等の像がある。
  • 変遷 寺の盛衰変遷はどこでもわかり難いことであるが、本院現存の遺物に前述の礎石の他、天正の名号石と明応の五輪塔地輪がある。明応は室町時代の中頃で、天正6年は織田信長全盛の頃であるが、当時この寺は相当栄えていたことと思われる。
     当大字にたくさん寺があり、何れもれっきとした住職のいらっしゃることは、むしろ法義の繁昌を証するものと思われるにかかわらず、創立の古い本院に古い時代の仏像のないのはどうした事情によるのであろうか。大字上中の萬善寺にある観音像はもと尼寺にあったものといわれるが、本院におうしたもののないのは淋しいことである。文化財保存は決して骨董趣味ではない。優秀な文化財は知らず知らずの間に我々をよい方に導いてくれるものである。

香塔寺(高堂寺 浄土宗鎮西派 畠田字尼寺)

 聖阿さんの建てた寺であるというが、付近に古瓦が散在し、東側の芝地に礎石のあることなど、神社の傍にあることと考え合わせ、もっと古い時代の創建に違いない。調査の価値がある。聖阿上人は尼寺の出身で、当麻村染野石光寺でも中興上人として祀られ、そこでも聖阿さんと親しみある呼び方がなされている。広く慕われていた大徳で、香塔寺もこの上人が建てたであろうが、それは創立ではなくて再興復興であろう。

  • 本堂 入母屋造桟瓦葺、妻入、珍しくも向拝が付けてない。
  • 本尊 弥陀三尊像 中尊定印の阿弥陀如来坐像高さ45.5cm、脇士観音勢至立像高さ各30cm。他に高さ97cmの観音菩薩立像、60.5cmの地蔵菩薩立像や聖阿上人坐像、涅槃画像などがある。

薬師堂と行者堂

般若院の東に薬師寺跡と称するところがあり、路を隔ててその北東に薬師堂と行者堂とがある。この両堂の周りに礎石が5,6個あり、その南方の土地を堂の前と呼んでいる。いうまでもなく古い伽藍の跡で、般若院と合わせて一つの伽藍を考えるべきであろう。

尼寺とは

 上古、寺は僧寺と尼寺と並立していることが多かった。国々に国分寺が建てられたときも僧寺と尼寺とあったので合わせて国分二寺とも呼ばれる。今、村の名を尼寺と称するのは、ここに尼寺があったわけであるが、それでは僧寺はどこにあったかと考えたくなる。北の高堂(香塔)寺も古寺の跡らしいから、この両者を充てることも出来るが、もっと離れて王寺には古く片岡王寺があった(今の王寺小学校の地)これに対する尼寺とも考えられる。しかし強いて二寺を建てる必要もないから、ここには尼寺だけがあったのかもしれない。
 古瓦や礎石などの上からこの寺は相当立派であったと思われるが、いったい誰が建てたのであろうか。大字平野には古墳がたくさんあり、造りがよいからそれらはよほどの貴族か豪族か或いは財産家のものに相違ない。古墳はその人の居住の近くに造らない場合が多いから、それらの古墳の墓主は平野の住人でなくともよい。しかし尼寺にこうした伽藍を建てた人は、この土地に求むべきであろう。古墳の年代が問題で、平野の古墳は何れも古墳時代末期のものではあるが、寺の創立と時代を同じうするか否かは未だ明らかでない。ただ考えられることは、古墳だけならば直ちにその土地の発達を云為することはできないが、寺の存在は以て、当地が白鳳の昔すでに、高度の発展をしていたであろうということである。
 我々は歴史によるのでなければ本質をつかむことはできない。本村のもつこの古い歴史は、以て、本村の将来を卜し、本村がますます発達することの可能性を証するものというべきである。

来迎寺(浄土宗鎮西派 畠田尼寺)

 般若院の北にあり、もとは般若院(或いは薬師寺か)の境内地にあった子院の名残かもわからぬ。

  • 本堂 阿弥陀如来坐像 高さ85.5cm。黒くて古そうに見えるが、寺伝に1200年前の作とあるようなものではない。

 他に高さ36cmの阿弥陀如来坐像二体、45.5cmの観音と勢至の立像、97cmの毘沙門天立像をはじめ、十一面観音・誕生釈迦・不動明王・善導大師・円光大師等の像や涅槃画像がある。

永福寺(浄土宗鎮西派 畠田字送迎)

  • 本堂 入母屋造本瓦葺、前向拝一間。
  • 本尊 釈迦如来座像 高さ106cm、半丈六とも見られる大きい金色の立派な像で、藤原風を具えていらっしゃるが、寺伝に言う如き行基菩薩作と見られるような古いものではない。

 他に阿弥陀如来坐像二体・大師像二体・寛文10年遷化の開山上人像などが祀ってある。
 涅槃画像は3.4mに2.15m絹本彩色、元禄16年古簡筆というもの、狩野正信筆の釈迦三尊画像や観経曼荼羅等もある。

  • 観音堂 本堂に向かって左に観音堂がある。大棟が短いので宝形造のように見えるが方三間の四柱造である。
     本尊は十一面観音立像、高さ136cmもある大きい像で、右手錫杖、左手水瓶の長谷寺式の金色の観音像である。他に高さ93cmの地蔵菩薩立像が安置してある。
  • 石層塔 本寺の誇りというよりも、本村第一級の文化財として恥ずかしからぬものは、本堂と観音堂との間にある七重の石層塔である。穴虫石と呼ばれる二上山麓に存在する火山系の岩石(松香石・凝灰岩などと称する)で造ってある。相輪部(上の方)は全然変わっているほか、ひどく破損しているので、元の姿はわからないが、十三重もあったとは思われない、。九重か七重の塔であろう。各層の逓減が大きく、初層の塔身の高さが巾に比して高いことなど異なった点で、屋根の反りも美しく、平安時代を下るものではあるまい。近くにある類似の塔には、下田の法楽寺に一重だけのものが一基、逢坂に五重のものが一基。
  • 変遷 行基を開基とするというが、それは明らかではない。中古廃れていたのを、慶安年中(江戸時代のはじめ)丹羽浄清妙春の二人が草庵を結び仏事を営んだが、元禄年間浄清の子実斎は、法誉和尚の指揮により今の堂宇を建立したという。

常楽寺(融通念仏宗 畠田)

  • 本堂 入母屋造り妻入りで、正面には神社のような千鳥破風が付けてある。
  • 本尊 阿弥陀如来立像 たかさ97cm、踏割蓮花座の上に立たせられる玉眼入りの像で、室町時代の造顕と思われる。
     なお、誕生釈迦像、毘沙門天像の他十一尊仏、涅槃画像などがある。

光得寺(浄土真宗大谷派 畠田字小黒)

  • 本堂 入母屋造桟瓦葺、前の向拝は本瓦葺。
  • 本尊 阿弥陀如来立像 高さ59cm

信念寺(浄土真宗 畠田)

  • 本堂 入母屋造桟瓦葺
  • 本尊 阿弥陀如来立像 高さ49cm、源信僧都作と伝えられるが、右足の柄に判があり、江戸時代の作と思われる。
     阿弥陀如来・聖徳太子・湛如上人の画像などがある。

杵築神社(大字平野)

  • 祭神 大国主命或いは素戔嗚尊
  • 本殿 春日造 本殿の左右に摂社春日神社と熊の本宮がある。

七つ石

 大字平野には人家の側や道ばたたんぼの中などに大きな石がドッカとすわっている。七つ石と呼ばれる。古墳から持ち出した石も方々に散らばっているが、それとは違うようである。村の知者が古代信仰と結びつけて説明している。一方では、昔、平の本の長者というのがあって、七つ石はその庭石であったのだと説いている。因みに平の本には谷田の椿とて、二抱えもある大椿があり、名木として知られていた。それも長者の庭木ということらしい。

正楽寺(大字平野 浄土宗鎮西派知恩院末、開基は江戸初期)

  • 本堂 入母屋造桟瓦葺、妻入、文化12年再建、4月3日入仏、当麻寺奥院導師をつとめた。
  • 本尊 阿弥陀三尊像 中尊阿弥陀如来坐像 高さ66.5cm 恵心作と伝えるもので、藤原風の優しさがあり古式に造ってあるが、本寺創立頃のものであろう。
     脇士観音勢至両菩薩像 高さ45.5cm。
     他に阿弥陀如来坐像・善導大師像、円光大師像がある。
  • 石仏 本堂の前に大きい石仏があり、大日如来像と称しているが、定印の阿弥陀如来坐像が刻んである。石は高さ215cm巾91cm厚さ約13cm、一見古墳関係のように見える。石仏は通じて時代のわかり難いものであるが、特にこの石仏はわかり難い。側に長享銘の五輪塔の地輪がある。これを本寺関係のものとすれば、寺の創立は江戸時代よりも古くなる。

古墳(大字平野)

 正楽寺の西に接して古墳(塚穴山古墳)がある。石室の立派なこと稀に見るところである。石室を凝灰岩の切石で造っていることも珍しいが、入口も石造建築に見る如く、美しく削った角材で組み立て、扉がはまるように造ってある。玄室の天井は文殊院西古墳のように穹窿状にはなっていないが、側壁と同様、凸凹のない綺麗な造りにしてある。土取りのために封土がだんだん失われ、破壊の一歩前というところであるが、これだけの石室は類例のないことであるから、何とかして保存の道を講じてほしい。
 杵築神社の東方にも何基かの古墳がある。神社のすぐ東の古墳は最近破壊されたらしく、組立式石棺の破片らしい凝灰岩が十個ばかりころがっていた。その東の方、道の側に口を開けている古墳(車塚古墳)があって、羨道をなくしているが、ここも凝灰岩で造り、入口に扉を立てるようにしてある。石棺に凝灰岩を用いる例は多いが石室をも凝灰岩(松香石)の切石で造ることは県下では珍しく、本村古墳の一特質ということが出来る。

仏念寺(浄土真宗仏光派 平野)

  • 本堂 妻入りで表は入母屋造本瓦葺、向拝付、裏は切妻。
  • 本尊 阿弥陀如来立像 高さ49cm
     他に見真大師(宝永6年下付)聖徳太子(文化6年)七高僧(文化6年)順如上人等の画像、往生要集画五幅等がある。

志都美神社(大字今泉字清水)

  • 祭神 ホンダワケノ命・アメノコヤネノ命・ソコツツオノ命(或曰シズヒメノ命)
  • 社殿 三間社流造・カツオギなし、内陣扉に豪華な桃山風の画がある。天正頃に造営したものを、その後の改造にもよく残されたものか。
  • 社伝 鎌足六世の孫片岡綱利が、弘仁4年に祠を建て清水神社と称したが、後志都美神社と改称したという。境内に志都美の井がある。延喜式神名帳にある志都美神社は本社であろうから、その創立が延喜以前にあることには間違いない。またシズミの名称は祭神シズヒメノ命におこるとも考えられ、またシミズのミズを逆にしたものとも考えられる。
  • 明王院跡 本社の東に寺跡がある。先年「延元元年」の文字がある瓦が落ちていたといわれるが、布目瓦の散布することなど思い合わせて鎌倉時代にはすでに寺のあったことが考えられる。それが明王院で、本社の神宮寺であろう。仏像は明治初年神仏分離の際、上中の萬善寺に移した。

 神社の北に隣って御陵がある。御陵や古墳の側に神社寺院のある例が多い。ここもその一つである。

念通寺(融通念仏宗大念仏寺末 大字今泉字畑ノ浦)

  • 本堂 単層入母屋造本瓦葺妻入
  • 本尊 阿弥陀如来立像
  • 仏像 釈迦如来座像 高さ53cm、地蔵菩薩立像、不動明王立像、開山及中祖上人像の他、観音菩薩立像、高さ72.5cm、一木造りで衣紋は翻波式に作られ、彩色が残っている。形式の古のは造顕も相当遡るかも知れないが、素人作の感じがする。
  • 地蔵堂 石段を登り切ると右側にある寛政2年11月上棟の宝形造本瓦葺の堂で、本尊地蔵菩薩坐像(石)聖徳太子立像の他、向かって右の方に
  • 不動明王立像 仏身高61cm、一見奈良十輪院の不動像を思わせる表現で、顔が大きく、羂索を上に捧げた形にしている点など様子の変わった作りで、鎌倉時代に見られる古い手法である。コンガラ・セイタカの二童子も侍している。

正福寺(浄土宗鎮西派 大字今泉)

  • 本堂 入母屋造二重屋根、表は本瓦葺、他は桟瓦葺、妻入
  • 本尊 阿弥陀如来坐像 高さ85cm、恵心僧都作と伝えられるだけあって、藤原様式のしっかりした像である。

 他に地蔵菩薩坐像・善導大師坐像・円光大師坐像・本遍和尚坐像(山本印慶作)・釈迦涅槃画像(紙本彩色中村宗天筆)等がある。

(正願寺融通念仏宗 大字上中)

志都美駅の側にある寺。

  • 本堂 小さいながら重層入母屋造で、上層は桟瓦葺、下層は大体本瓦葺。
  • 本尊 阿弥陀如来立像 高さ約80cm、来迎印の金色像で、台座は踏割蓮花、光背は舟形の美しい透彫。

正念寺(浄土真宗大谷派本願寺末 大字高)

本堂 入母屋造桟瓦葺

  • 本尊 阿弥陀如来像 愛泉堂旧跡 愛泉念仏霊場
     寺の南東にある。名号石・十三重石塔などの他、阿弥陀如来坐像の石仏を祀る、法界定印の姿で、室町時代を下らぬものと拝せられる。

萬善寺(大字上中 浄土宗鎮西派知恩院末)

  • 本堂 単層入母屋造本瓦葺
  • 本尊 阿弥陀如来坐像 木像、高さ76cm、なお観音菩薩立像(90cm)善導大師坐像・釈迦如来画像・釈迦般若画像・円光大師画像の外にもう一体の木像
  • 阿弥陀如来坐像 がある。志都美神社から遷されたもので、肉髻(にっけい)が高く、螺髪(らほつ)が細かくてきれいに揃えられ、相好(そうごう)も円満でやさしい。光背(こうはい)も台座も同時のものらしく、光背の透かし彫りが美しい。
  • 観音堂 本堂の左前方にある宝形造本瓦葺、前に礼堂を付けた堂。
  • 本尊聖観音菩薩立像 高さ90cm、顔・胸の一部に金箔を留めている外は、すっかり箔は剥落している。全体に細っそりとした感じであるが、腰部の大きいのが目につく。面長(おもなが)の顔は殊に出来がよい。あれているために古く見えるということもあるが、少なくとも顔には天平を想わせるようなよさがある。もと畠田尼寺のものであったとか、葛下川で拾ったとか伝えられるように、もとから本寺のものではなかったらしい。
     なお、地蔵菩薩立像 高さ85cm、室町時代作と思ぼしい木像の外幾体もの尊像を祀っている。

法覚院(大字上中字三角)

法覚院観音像
  • 本尊 釈迦如来座像、高さ90cm捻花微笑の釈迦と呼ばれる。手に花を持った珍しい像容。肉付きはなかなかしっかりしている。脇壇には大きい四天王像や開山上人像など極彩色のみごとな像が、内陳一杯に祀られ、荘厳の立派なこと、境内の広くて整備の行き届いたことと併せ驚くばかりである。

 山下現管長は二代目で、先代日慎上人が開祖、オサエ谷に祠を建て祀ったのが始まりで、半世紀間にこの発展を見るに至った。管長自ら石を運び、木を植え、道造りまで人手を煩わせないように努めたということである。人各々長短あり、古い聖賢といえども難癖つける人もある。ここまで築き上げられた業績は、大いにたたえられてよかろう。