金石文

 金石文というのは、本来は金属類や石に刻まれたり、陽刻された文をいうのであるが、更にひろく木製品や瓦、布などに墨書されたり、刻みつけられた文も含んでいる。歴史には文献によることが多いが、こうした金石文も大切な資料となる。また、金石文は仏像や石塔などが造られるときに銘記することが多いから、正確な作の年代や時とすると、作者まで判ることがあるから、美術史の上でもこれに頼ることができるので重要な資料とされている。ことに郷土の歴史を調べる上において、金石文はいろいろ役立つものである。志都美村の金石文は、古いところでは今まで殆ど知られていなかったが、今回の調査において立派な資料が数多く見出された。ここでは明治や大正というような新しい資料を省いて、桃山時代末すなわち慶長末年以前のものを掲げることにする。慶長末年といえば、今から344年前(注:昭和31年書)になるから、それ以前とすれば随分古い遺物が村に残っていることになる。さすが古い社寺が伝えられるだけあって、尤もなことと思う。古い墓碑は大抵無縁仏になって顧みる人もないが、しかしその土地にこの墓碑一基あることによって、その寺や墓の年代がどこまで遡るかという大切な実証的資料ともなるであるから、ここに掲げるような金石文資料は心して保存してもらいたい。

明王院軒平瓦(今泉)延元元年(1336年)

 志都美神社の東に土壇があり、その付近に古い瓦片が散乱している。明王院のことについては、地名のところで既に掲げたが、これを立証する資料としてこの文字瓦が発見されたことは有難い。軒平瓦というのは俗に言う唐草瓦のことで、唐草のあるところが文字になっているのである。文字は左から右へ一行「延元元年」と浮き彫りに表されていたというが、残念なことにいまその瓦は現地には残っていないそうである。将来、この付近で同様な瓦が出だろうが、小さい破片でも大切な資料となるものである。

共同墓地板碑(今泉)文正元年(1466年)

 畑ノ浦にある墓地の六地蔵の近くに見事な板碑が建っている。この種の碑としては県下でも注目すべきものである。高さ1m75、巾上の方で32cm、下方は34cmあり。碑の頂端は三角形に切り落としその下に三段の切り込みがある。文字は次のように刻まれているが、その上に梵字で「ア」が刻んである。これは胎蔵界大日如来の趣旨である。
         寅       文正元年酉戌

     永享六年

         甲

妙 見         迎卅三年之忌辰建立之
     六月十九日       弥五敬白
 この碑はこの共同墓地で一番古い年号を表したものである。墓地の来歴にも関係がある大切な資料である。
 碑は、永享6年に亡くなった妙見という人の卅三年忌に当り、文正元年に弥五という者が建立したものである。

正楽寺五輪塔地輪(平野) 長享2年(1488年)

 寺門を入ると左手に石仏を祀る堂が二つある。その手前の堂内に方形の石を二つ積み重ね石仏を安置している。
 この方形の石は二個とも五輪塔の地輪石を転用したもので、その一個の正面に
  惟成大願禅門
  梵字「アー」
     戌

  長享二 八月十日

     申
 と刻んである。年号は惟成禅門の没年月を記したものであろう。正楽寺も古い寺で、歴史のところで記したように、江戸時代の紀行文にも出てくる寺である。五輪塔というのは墓碑や供養塔として造立されるもので、方形の地輪石の上に球形の水輪をおき火輪と称える笠石をのせ、頂上に宝珠型の空風輪部をそなえる塔である。各部が四散してここに地輪が台石になっているのである。

般若院五輪塔地輪(尼寺)明応4年(1495年)

 これも前例の地輪石で、毘沙門堂の横に置いてある。明応4年といえば、室町時代の中期で、今から460年余り前(注:昭和31年書)のことである。僧侶の墓らしく、石の一面右側に「阿闍梨快弘逆修」、左手に明応四年 二月時正とあり、中央の梵字は「アク」が刻まれている。石の高さ18.5cm、巾2.55cmあり。

            乙

            卯

共同墓地供養碑(香滝)天文7年(1538年)

香滝供養碑

 火葬場の手前に高さ1m48、巾40cmの板碑方供養碑がある。上に弥陀三尊の種子「キリーク」「サ」「サク」を月輪内に刻み蓮座がついている。文字は中央に「三界万霊乃至法界、逆修衆釈迦寺」とあり、その左右に結縁の法名が多数刻まれている。年号は右の枠に「天文七年戊戌」、左に「二月十五日」とある。逆修とは、生前に作善供養して後生安楽を得るためで、その結衆した人々が逆修衆で、恐らくその法名が左右に刻んであると考えられる。

共同墓地名号碑(香滝)永禄2年(1559年)

 自然石を舟型に整え、内部の背光の中に大きく「南無阿弥陀仏」「永禄二年」「二月十五日」と刻み、下方に多数の法名が表されている。石の高さ1m85、巾63cmあり。

共同墓地阿弥陀石仏(香滝)永禄10年(1567年)

 火葬場の中にこんな古い石仏が祀られている。舟型光背に定印の阿弥陀仏を陽刻したもので、永禄十年二月十五日の紀年銘がある。永禄十年といえば、かの松永弾正の乱たけなわの頃である。

板碑型六字名号碑(小黒)天正4年(1576年)

 小黒の南端にある「ちゝかけ地蔵」に高さ4尺7寸、巾2尺の板碑型名号碑がある。造立は六斉念仏衆で下方に三段にわたって多数の交名が刻まれている。

般若院名号碑(尼寺)天正6年(1578年)

 1m余の自然石に、舟型内に六字名号を大きく刻み、「天正六年 」八月十五日とあり。下方に三段十数行にわたって40名余りの法名が刻まれている。

                              戊

                              寅

共同墓地名号碑(今泉)文禄2年(1593年)

丘陵の頂上にあり。高さ72cm、巾約30cmの花崗岩に舟型内に薄肉にて五輪塔形を表し「南無阿弥陀仏栄□淨見比丘」「文禄二年 」「八月二十一日」と刻まれている。

                己

                癸

共同墓地名号碑(今泉)文禄2年(1593年)

 墓地入口の六地蔵傍らにあり。板碑型の名号碑でm高さ1m22、巾46cm、名号の下方及び左右に多数の人名が刻まれている。建立は文禄2年9月4日。

共同墓地背光五輪碑(今泉)慶長12年(1607年)

 墓地頂上近くにあり。石材は他の墓碑と異なり安山岩で俗にカナンボ石という黒いキメの細かい石である。高さ79cm、五輪塔形の中に「キヤ・カ・ラ・バ・ア」と発心門の五梵字が表され、地輪部に「清巌浄円禅定門」「慶長十二年 八月九日」とある。これは純然たる墓碑である。

                 丁

                 未

尼寺入口名号碑(尼寺)慶長14年(1609年)

 高さ1m27、巾72cm、花崗岩の自然石名号碑で、これにも多数の結衆法名が刻まれている。

小黒名号碑(小黒)慶長20年(1615年)

 背光型の六字名号碑で、高さ6尺3寸、巾2尺7寸もある堂々たるもので、志都美村に数ある名号碑では一番大きい。紀年は慶長20年7月15日となっているが、慶長は19年までで、20年は元和元年に当たる。改元されていても、もとの慶長を使っている。例はよくあるがちょっと興味のある碑である。造立は六斉念仏講衆中で、下方にその交名が多数刻まれている。


 以上14件が慶長末年以前の古金石文であるが、瓦銘一を除き他は全部石に刻まれたもので石仏が含まれている。
 中でも文正元年の妙見供養碑や慶長20年の小黒名号碑は、石造品としても見事なものである。
 畠田の火幡神社に天文22年の墨書ある扁額があることが、記録にみえるが現品は確認することができなかったのは遺憾であった。