村の歴史

石器時代

 この土地にいつ頃から人が住んでいたか、どんな文化が開けていたかなどは興味ある問題である。この謎を解く鍵は、考古学的究明をまたなければならない。今日のように文字が使われていなかったずっと大昔のことであるから記録や文献に頼るわけにはいかない。また伝説とか民族というものにも非常に古い要素が認められるが、その反面ある時代に制作されたものや後世に付会された部分があってなかなか難しい問題がある。考古学という学問は遺跡や遺物を中心に昔の生活や文化を極めていくものであるから実証的な資料が基礎となっている。
 われわれが耕作物を中心に土器の破片を見出したり、路上で黒ずんだ石を加工した石器を発見することもある。こうした土器や石器が出土することによって、やがて古代人の住居後や祭祀遺跡を発見することがしばしばある。ことに最も早く開けたという我が大和地方には、こうした遺跡や遺物をいたるところに見出すことができる。
 こうした考古学的見地に立って一度志都美村を歩いてみよう。まず村の南端、下田に接する辺りには土器片や石器片が散乱している。土器や石器は考古学上二つの時代に分けることができる。一つは繩文式といい、他を弥生式という。繩文式土器は赤黒い砂混ざりの土器の面に繩せき文をおいたものが多いからかく呼ぶのであるが、この形式の遺物が一番古いものと考えられている。下田の顕宗天皇陵の東方から志都美陵にかけて、この繩文式土器の破片が見出される。まだ完全な形のものは志都美村では発見されていないが、破片からみると繩文式も後期のものが多い。この時代は狩猟や漁猟によって生活していた時代であるから丘陵地やそれにつづく扇状台地に遺跡があると考えてよい。当時の利器として用いたのは石器で、猟に使う石鏃もあれば、石錐や石斧、石棒などいろいろなものがある。この石器の原石は二上山から産出する黒い艶のあるサヌカイトと呼んでいる。サヌカイトは裂面が鋭いので利器として最も有効である。田畑を耕作していると、その原石や一部加工したものが目につくことがある。大和における重要な繩文式遺跡は吉野川流水、山部山間、三輪山麓、橿原、二上山麓などで、下田や志都美はやはり二上山麓に展開する遺跡の延長と考えることができる。
 次の弥生時代になると、人々は次第に平地に移り、ここで水田耕作を始める。このことは、出土遺物によって、農耕生活が行われていたことを認めることができる。唐古の遺跡で鍬や鋤のような農耕具が発見されたり、あちらこちらの弥生式遺跡で籾や粒痕のついた土器が見出されている。志都美村の平地になっているところは、耕土中に弥生式土器の破片が見出されているから、この時代に既に開発されていたと考えられるが、はっきりした住居遺跡は判っていない。人々が一定の土地に住み着くようになると、必然的に集落の発生が考えられ、やがてはその集落を支配する有力者が出てくるわけである。これが今日にみる村の起こりであり、地方豪族の発生と考えることができる。

古墳文化

 こうした豪族たちは周辺の豪族を統一、次第に力を増してくるのである。人々の住居も簡単な竪穴式住居から床を張った住居を作り、別に貯蔵用の小舎を作ったりするようになる。

古墳(平野)

 古墳の主は、貴族や豪族であって、少なくともこの付近の土地に関係のある人であるから古墳は大切に保存しなければならない。志都美村では今泉、平野、畠田方面に古墳が多い。今泉字ハトンにある方形墳、字カメヤマのカメヤマ塚はよく知られている。また平野の字土山には数基の古墳がある。いま保育所のある丘陵の西方台地には既に発掘されて石棺の一部が露出したものもあれば、破壊されて石室内部の切石が放置してあるものもある。畠田の香塔寺や陽楽にも小さい古墳が残っている。これらの古墳は、誰を葬ったものか判らないだけに、その保護に留意しなければならない。

正楽寺古墳

 馬ノ背坂をもとのかたへ下りて、三十町ばかり南へゆきて、下寺といふ村より、西にいりて、今泉村をへて、平野村にいたる。村の東ノ端に正楽寺あり。その前を猶西にゆきて、道の右に登る路あり。此路を北に登りて、右のかたにめぐり 四十間許なる円塚あり之を塚穴といふ。家のすそを南へめぐれば、南むきて石槨の口顕はれたり。其口の広さ四尺五寸五分、高さ四尺二寸、奥へ深さ九尺九寸一分余、みな煉石にて作る。横三枚づゝ、天井三枚、奥一枚、槨の口を塞ぎたりし石は失せて無し。御棺を居たりし所には石を敷きて床としたり。
 今見えたる所、大よそ右のごとし。この此塚を顕宗天皇の傍丘ノ磐坏ノ丘ノ南ノ陵に充ちたるは、いかにぞやおぼゆる。そも此石槨の内のさまをかくしも図ける故は、あまたある古塚どものなかには、発けて石槨の内のさまのよく知らるゝも多かれど、自然なる石もて造立たるが多くて、拙き筆には絵にも写得がたく、写したりともそのつくりざまをよく心得らるばかりには写得がたきを、たゞこの石槨は煉石の作り石にてささやかに細しく造りあれば、図にも写しやすく、そを見むにも心得やすかるべくて、かくはものしつ。惣ての陵墓の石槨のさまも、大き小さき違ひこそあれ、そのつくりざまの大観は推量らるればなり。此塚の北後より東にゆけば、正楽寺にいづ。寺よりまた東に、此村の産土神牛頭天王社あり。此社より丑寅の方なる山腹にいたく荒たる古墳あり。塚ふたつ西東に雙べる塚のごとくは見ゆるにぞありける。さる例はほかの古墳にもあることなり。西なる塚の上の南よりに、大石の肩顕はれて見ゆ。すべての塚のめぐり百間余りあるべし。此塚の字を石ノ北といひ、又車塚とも昔はいへりしか。此あたりの山の字を片岡山といふとぞ。こを武烈天皇の傍丘磐坏丘ノ北陵に充たるもおぼつかなし。かの塚穴とは西東にありて、北陵南陵とはいひがたくなん。

武烈天皇の御陵

武烈天皇陵

 武烈天皇の御事績については、日本書紀と古事記の記載が異なっている。紀は前半に影媛との悲しい恋愛事件を取り扱い、御即位後の後半についてはいわゆる乱行事件が記されている。またその辺りに百済の末多王の暴虐事件なども記されていて、彼我の区別がつきにくいところがある。これに対して古事記は極めて簡単に次のようなことを記している。小長谷若雀命、長谷之列木宮にましまして、八歳天ノ下治しめしき。この天皇、太子ましまさず、かれ御子代として小長谷部を定めたまいき。御陵は片岡之石坏岡に在り。この天皇既に崩りまして、日続知ろしめすべき王ましまさず、かれ品太天皇の5世の孫、袁本杼命を近淡海国より上りまさしめて、手白髪命に合わせまつりて、天ノ下を授けまつりき。さて記、紀の記載よりみると、武烈天皇は仁賢天皇の太子で御生母は春日大娘の皇后で、仁賢天皇の7年に皇太子につかれている。天皇としての御在位は僅か8年、宮居は「はつせのなみきのみや」(泊瀬之列城宮・長谷之列木宮)という。いまの桜井市出雲にその宮跡の伝承地がある。

武烈天皇陵

天皇の御享年については、記、紀ともに記していないので明らかでないが、一説に6歳で皇太子に立ち、10歳で御即位、18歳で崩じ給うという。御父天皇の御年紀やいろいろの関係から考えて早逝されたとみる説が有力である。こう考えてくると、書紀に記されている影姫や平群の鮪臣との事件はどうも顕宗天皇の時代のことではないかと思う。また武烈紀2年より8年までの無道奇偉の戯を記したところは、かの百済王の無道暴虐を奏上した百済記なるものが転じて一部混在して記されたものであろうという説に賛成したい。しかし書紀に記す御事績をそのまま受取って影姫との恋に破れ給えるのが原因で、遂には乱心に及び給うたと説く学者もあるが、天皇の崩御の御年が明らかでないのと、かなり早く崩じ給うたという考え方からすると、これは一考を要する説であると思う。御陵は「かたおかのいわつきのおか」(片岡之石坏岡・傍丘磐杯丘)にあり、継体天皇紀二年冬十月にこの陵に葬りまつるとある。諸陵式に「傍丘磐杯丘ノ北ノ陵、泊瀬列城ノ宮御宇武烈天皇、在大和国葛下郡、兆域東西二町、南北三町、守戸五烟」とあり、大和志には「在葛下郡平野村」と記している。この磐杯には南北2陵があって、南陵は顕宗天皇の御陵で、北陵がこの武烈天皇の御陵である。この南・北2陵の位置について昔から諸説があったが、南陵はいま北葛城郡下田村北今市、北陵は志都美村今泉の地に制定されている。この付近には、誰を葬ったか判らない古墳がたくさん残っているが、いずれも郷土に関係の深い由緒ある古墳であるから大切に保存していかねばならない。

大陸文化と仏教

 貴族や豪族を葬った古墳の中にはいろいろな副葬品が納められているが、これらはいずれも大陸文化の影響を受けていることが判る。古墳時代の末期になると、仏教の影響で火葬墳墓が行われるようになる。古墳の規模も小さくなってきて火葬骨を金銅製の容器や石びつに入れて葬り、時には個人の経歴などを記した墓誌を伴うこともある。
 志都美村畠田の小黒でこの種の石びつらしいものを見たが、出土地点や埋没状態を明らかにしておきたいと思う。
 仏教の伝来は日本文化史上劃期的な役割を果したといわねばならない。一般に仏教の公伝は欽明天皇13年(552年)というが、それ以前にもなんらかの形で仏像等が入って来ていたと考えることもできる。大和では飛鳥地方や斑鳩地方に立派な寺院が建立され多くの仏像が造られた。この時代の中心は飛鳥地方にあったので一般に飛鳥時代と呼んでいる。ことに聖徳太子は仏像の隆盛に力を尽され、太子建立の寺院と伝えられる寺が46もあり太子に由縁があるという寺を加えると随分大きい数になる。
 飛鳥から都が藤原の地に移されるに及んで初めて唐の大規模な都城計画が採り入れられ、日本の政治、経済、制度などの上に大きい改新がもたらされた。これを大化の改新と呼んでいる。当時藤原宮を中心に多くの寺が周辺に堂塔伽藍をつらねていたが、都が平城の地に移るとやがて大切な寺院は奈良の地に移っていった。薬師寺、興福寺、元興寺、大安寺等はその例である。
 奈良に都があった頃を天平時代と呼んでいるが、この時代には大和はいまでもなく全国各地に亘って大きい寺が建立されている。当時の寺は単に宗教や学術文化の中心であったばかりでなく、地方の政治や経済にも大きい関係をもっていた。
 それから1200~1300年もたつと、廃寺になったものや焼けて跡形もなくなったものが多い。田や畑の中から古い布目のある瓦が発見されると、こうした古い寺院のあった跡と考えることができる。

尼寺の寺跡

 般若院境内やその東方にある畠田の尼寺に古い瓦の出るところがある。

尼寺礎石(般若院境内)

薬師堂と役行者堂の辺りには礎石が残っている。般若院の境内にある2個の礎石は露出しているので、当初のままの位置でないことが判るが、薬師堂のあるところには6個の礎石が残っているからここに何かの建造物があったことが考えられる。礎石は大きい自然石の表面に円柱座を表わしたものである。出土する瓦の文様は数種類あって、鴟尾の断片も発見せられている。礎石や瓦の形式からみて、この辺りに奈良時代創立の寺院があったことが思われる。さらにこの寺院から北へ進むと、いまの香塔寺の東一帯にかけて耕作地の中におびただしい瓦の破片が散乱している。香塔寺下には芝の土壇が大小三ヶ所残っている。礎石が残っているところは堂の所在を示すわけである。しかし小さい芝地で円形をなしているものは古瓦片や栗石がいっぱいつまっているので、これはいわゆる瓦ヶ塚といわれるものらしい。

尼寺出土瓦

瓦の中には火中したと思われるものもあるからここに埋没したものであろう。ハス池の近くが最も瓦の多く出るところである。この辺りにも何かの堂塔があったことが考えられる。しかし般若院付近と香塔寺付近は距離的には少々踞っているからこれを直ちに一つの大寺院跡と考えるのは如何かと思う。僧寺と尼寺の二つの寺院があったのか、或は地名の示すように尼寺の跡であってこの二つの場所の時期的に一方から他方へ移ったものか判断は難しい。この寺跡は何寺の遺構であるかについては諸説がある。恐らく般若尼寺の跡でないかと思う。王寺町に放光寺あり、この片岡僧寺に対してここにその尼寺があったものと考えたい。般若寺の毘沙門天像の背面に「華厳山般若院片岡尼寺、開山皇太子勝曼菩薩ナリ、毘沙門天皇太子作」と墨書されている。片岡尼寺の創立を聖徳太子としているが、これは、太子伝私注抄に掲げる太子建立の46箇寺院の中に般若寺の名があるから、このように考えることもできる。しかし、般若寺は他所にも擬せられることもあるから今しばらく吟味しなければならない。これについて有力な資料は春日神社文書(応永6年)に大安寺段別並田数注進状というのがあって、その中に葛下郡に高尾寺、般若寺、当麻寺、放光寺、弘道寺などの名が表われているから、放光寺と般若寺をこの片岡の地に対比することができる。ただ問題になるのはこの寺が太子建立とすればもう少し古い形式の瓦が出なければならない。未だこの寺院については学術的な発掘調査が行われたことがないから、将来の究明を待たなければならない。
 いずれにしてもこの志都美村に由緒ある古い寺院があったことは認めなければならない。
いまはただ尼寺という地名と般若院、香塔寺などこの付近にはかなり多くの寺がかたまっていることは古い伝承を有力に物語っている。この寺院を中心として千年以上も昔には志都美地方は今日よりももっと栄えていたかも知れない。

大化の改新と条里制

 大和朝廷は有力な豪族たちに支えられ全国的統一国家をかたちづくった。それでも土地や住民を私有する封建的な豪族の動きが強く真の統一体制はとれなかった。ここにおいて聖徳太子は朝廷を中心とする強力な中央集権体制を敷かなければならないとお考えになった。この太子の理想をうけついで、唐の制度を大幅にとり入れ新しい国家の体制や政治のありかたを確立することに力をそそがれたのが中大兄皇子らである。この改革を大化の改新(646年)と呼んでいる。これは歴史上画期的な大事業であった。土地についていえば班田授受の法が定められ、これを実施するために土地の丈量や土地の整然たる区画が行われた。大化2年には私有地が開放され、いわゆる公地公民の制がとられることになった。当時の人たちは男女とも6才になると、それぞれ一定の口分田が授けられたが、これによって祖税や労役も課せられることになった。条里制は土地を東西・南北それぞれ6町間隔に碁盤の目のように区画した地割法をいうのであって、大和ではあちらこちらに整然と田の畦が畔区画された形が今も残っているところが多い。条里制の1里は方6町の土地になるが、これをさらに1町ごとに区画すると、36の1町4方の地ができる。これを坪とよんでいる。各地の小字名を調べてみると、五ノ坪とか三ノ坪とか呼んでいる土地があるが、これはこの36坪の一つの坪名が残っているのである。志都美村では、畠田と今泉にそれぞれ八ノ坪という小字が残っているが、それは全く条里制の呼名の名残である。
 片岡谷は葛下郡に属しているから、本来は路西条里区にあるが、葛下川流域のこの丘陵に挟まれた平地は一つの条里区を形成していたと考えられている。河川工事や大きい土木事業によって次第に条里の区画の跡が消滅していくのは遺憾なことであるが、新しい発展のためにはやむを得ないことである。

中世の動向

 都が平城の地から京都へ移ると、飛鳥や奈良の地は国の中心的存在の意義を失ってしまった。それでも南都は春日社・興福寺および東大寺の力はかなり大きいものであった。これはもちろん藤原氏の勢力に関連するところが大きく、特に興福寺の寺領荘園が次第に拡大していった。
 平家が藤原氏をおさえて政権を握るようになっても、南都焼討などの暴挙があり、かなり世の中は動揺していた。それが源氏に代っても興福寺などは武力を擁し非常に強力な勢力をもつにいたった。南北朝時代には大和武士が各地に台頭し越智氏と筒井氏の大きい抗争に発展していく。鎌倉時代には一向宗が大和に進出してきた。ことに興福寺の勢力の及ばない南大和や吉野地方を中心に次第に全地域に及ぼすようになる。天文年間に奈良の一向宗門徒町人が大挙して興福寺を焼討ちするというところまで新旧仏教の武力抗争をみるにいたった。至徳元年に春日若宮御祭礼に預かった大和武士の族名をみると、箸尾、岡、万歳、筒井氏ら約70士族の中に、片岡氏の名がある。片岡氏は上牧村下牧に城を築き、下田氏らを率いて松永氏に対峙していた。志都美村の送迎山城跡は片岡宗喜の拠るところで天正年間松永久秀のために滅亡したところである。大字上中に木辻ノ城というのがあって、いまも木ノ辻、城ノ辻と呼ぶところがあるが、ここも松永久道らが城を構えていたところである。七郷山にも城跡と伝えるところがあり、ここは畠山氏守護の当時のものかもしれない。
 王寺の達磨寺や放光寺も松永氏勢によって元亀2年頃に焼き払われたというから、恐らく尼寺の古い寺も、この兵乱にかかって亡びてしまったものだろう。

近代への推移

 本村の大部分は大化の改新の頃は葛下郡加美郷の地に属し、後に上里荘、ついで上里村というようになった。当時は中筋、今泉、平野、今市、中筋出作、高の6村がこれに属していた。しかし、上里は畠田も含めてひろく片岡と呼んでいた。徳川時代は郡山藩にぞくし本多庸之助の所領となっている。元禄13年の大和図郷帳によると
  四百三十二石八斗九升五合  上里村
  七百五十四石五升一合    中筋村
  三百八十六石九斗八升一合  高村
  五百八十一石八斗一升五合  今泉村
  四百二十八石三斗一升三合  平野村
 明治21年には上里、中筋両村が合して上中村になり、同22年の町村制実施に当り、上中、高、平野、今泉、畠田を合併して一村となし志都美村と称して今日に至っている。明治43年の調査によれば戸数376、人口2850人となっている。村に鉄道の開通したのは明治23年に奈良、王寺間、同24年に王寺、高田間であって、湊町奈良間が全通したのは翌25年のことである。郵便は明治元年に全国に180ヵ所の駅逓役所が設けられたが、葛下郡は高田におかれた。その後明治7年、下田に郵便取扱所が設置され、同15年畠田にポストが設けられた。
 明治5年7月、義務教育の制度が定められ志都美地方に奨道館と博文舎が設立されたが、それ以前は寺小屋とか私塾とよばれる所で教育が行われていた。明治19年4月、小学校令公布によって中筋尋常小学校及び同畠田分校(畠田、下牧)が設置、同20年4月には高田に高等小学校が設けられ下田にその分校があって、下田、五位堂、上牧、二上、志都美方面の教育に当たっていた。また今まで庄屋名主年寄などによって行われていた村の行政事務も明治4年に戸長役場を設けて執られるようになった。即ち中筋、上里、高、平野、畠田、今泉村を区域として中筋村に聯合戸長役場が置かれた。

志都美駅

明治29年、広瀬郡、葛下郡を廃して北葛城郡とし、翌年高田に郡役場が開庁した。
 わが志都美村は、こうした古い歴史を伝え、豊かな自然環境に恵まれ次第に発達し、今日に至っているが、特に近年省線畠田、志都美両駅が開設されて交通の利便が一層加わるとともに、昭和27年河川改修を計画、防災補助及び県費補助によって五ヵ年継続により工事費7200万円をもって改修工事続行中であり、町村合併と相まって今後の大きい躍進が期待されている。