地名のおこり

志都美-清水-葦田-片岡

 明治21年の市町村制実施の際、上中、高、畠田、平野、今泉の旧村を合併し、志都美神社の社名にちなんで志都美村の称を用いたのである。
 享保21年に刊行された大和志によると「志都美神社は上里村にあり、いま志都美八幡と称す云々」とあり、付近の5村落の鎮守社であった。この志都美というのは神社鎮座地の小字「清水」の仮字であって、音韻がいつしか転倒し、それが後世に残ったものとも説かれている。南葛城郡葛村の奉膳(ぶんぜ)もブゼンの転じたものであるが、いわゆるカラダ(体)がカダラに、タマゴ(卵)がタガモに訛るのと同じ理由であって、多少でも類似する音韻がつらなってできた地名に生じやすい現象である。一つの逆語地名といっても差し支えなかろう。ところが一説によると、志都美神社の祭神が木花咲耶姫命で、一名「シズヒメさん」であったからシズミの名が発生したともいわれている。
 明治時代、志都美と名付けられたこの地方は古い葦田の地であり、片岡の地であったから、村名も葦田か片岡であってもよかったわけである。延長年間、源順という人が書いた倭名類聚抄によると、当時における葛下郡内の郷名をあげている。つまり神戸、山直、高額、加美、蓼田、品治、当麻などの郷名がみえているが、この加美というのは志都美村付近の郷名であった。また日本書紀の片丘大窖、片岡馬坂陵(孝霊天皇)傍丘磐坏南(顕宗天皇)北(武烈天皇)陵、片岡葦田(茅渟皇子)墓のカタオカもおそらくこの付近の総称であった。すなわち地名「カタオカ」のカタ(湿地の意)は沢と同義で、湿地帯の丘だとも考えられるが、大和平野の西北隅のなだらかな丘陵に沿った一地域を意味する地形名であった。

志都美村遠望

 天文22年3月、京都の三条西公条(称名院)が奈良の歌人里村紹巴とともに高野山へ登った時に書いた「吉野詣記」によると次のように書いている。
「酒などたもて、しばらくありて片岡清水明王院にいたりて夜をあかしけり、九日、朝に出でたちぬるに、明王院のあるじあしたの原まで壷をたづさへてきたれり、むかひの峯などいう峯うちかすみて、まことに名ある所のさまなり、人々歌あり、

  • かすみけりあしたの原はあけぼのの 春をむかひの峯にのこして  紹巴
  • あき出づるあしたの原の名ごりあれや 春の一夜をふせる旅人
  • 今朝しも余寒けしからざるに温め酒にあらざる盃をひかえて
  • 春ながら身にしみけりなのみこむも あしたの原は冷酒にして   紹巴
     あしたの出でたち常よりもとりつくろひたるに朝のはらとよめるはいかゞとて、かの人にかはりて申しかりけり
  • しなてるやかたをかほどの飯くひて 朝の原といかでいふらむ
     おのおの頤(おとがい)をときてたちわかれぬ。これより達磨寺にまいりぬ云々

 この日記にもあるように、3月8日、当麻石光寺に詣でた称名院らがその晩、片岡明王院で泊っているわけである。明王院というのは清水神社の傍にあった寺院の名で、不動明王を安置してあったので明王院といったのであろう。伝説によると弘仁年間すでに堂が所在していたということである。神社の東方付近から当時の古瓦が出土するのはこの明王院のものであろう。出土した古瓦の中に延元年間の文字のあったものがあるといわれている。ここには清水の湧く井戸もあって俗に治眼に効ありといい、井中から古銭も出土したということであるが、今は全く埋もれている。おそらく「清水」という地名もこの井水から発したものであろうと思うのである。つまりこの日記をみてもよほど葦田の地名が気になったらしく、片丘の地名とともに実になつかしい古地名である。称名院が片丘清水明王院を出て向いの馬見丘陵付近を訪ねていることは明王院の「あるじあしたの原まで壷をたづさへてきたれり、むかひの峯などいふ峯うちかすみて云々」とある文句によっても想像される。すなわち現上牧村大字上牧付近と考えられるわけであるが、ここには今なお浄安寺という寺院があり、山号を飯盛山と称しているのである。日本書紀推古記21年12月の条に聖徳太子が片岡山で一人の飢人に「しなてるや片岡山飯に飢えて、やせるこの旅人あはれ云々」の歌を賜ったという記事をのせているが「しなてるやかたをかほどの飯くひて云々」の歌句も実は書紀推古記の伝説によったものらしく、山号の飯盛山もこうした故事にちなんだものであると想像するのである。

上中

 上里と中筋村が合併して生まれた村名である。中筋村からさらに出村した村が中筋出作(現上牧村領)である。上里村は和名抄、国郡部にみえる加美郷に属したものであろう。なお上里の出垣内に三角という地名がある。一に御門とも書いている。この三角の近くには片岡氏の城跡があり、この地の「オサエ谷」は早くから開けた所である。俚謡にも「酒は門前、濃茶は送迎、女郎は三角の押え谷」といわれるように、この押え谷にも集落があったらしい。この谷には片岡城の忌門に祀ったという神祀があったということである。三角は三路の交叉する地形に因った地名であるらしいが、片岡城の御門のあった所だという節もある。三角にある法覚院の所在地がドンゲン山(道元山)で、当院にはいまなお茶道御門流が行われているが、片岡氏がここに城塁をかまえた頃、信貴山の松永久秀が茶釜をもって火中にとびこんだという史実や、俚謡に唄われた送迎の茶とともに全く茶に縁のある地方といわねばならない。

畠田

 畠田は文字通り地形地名である。送迎、尼寺、山上、香滝、小黒の諸垣内より成っている。送迎と書いてヒルメと訓む垣内名は実に珍しく、地理調査所の地図にも送迎と書いてヒルメというカナを付している。口碑によると、昔、聖徳太子が斑鳩の地から舟渡渡を越えて、尼寺に至り、志都美村をすぎ、河内磯長へお通いになったとき、里民がここで送迎したという故事にちなんで送迎と書くようになったというのである。徳川時代の文書によるに日留女村と書いているが、事実、志都美村には太子道とよぶ古い路が残っている。さきに述べたように太子が片岡に出て、飢人をいたく憐れみ、食物を賜い、自らの御衣をぬいでおあたえになったといわれるが、太子が此所をお通いになったことも事実のようである。送迎の永福寺の山中には平安期を降らない層塔が残っているのをみても早くから開けた所であることが想像される。なおこの「送迎」をヒルメというようになった理由については、文政年間、同地明神山に大日霎命(オオヒルメノミコト)を祀る神社を創建したところ、近郷からの参詣人おびただしく、ついに茶店さえ出たということであるが、郡山藩の命によって廃絶した。今も同神社の鉄製釣灯籠や茶店の大釜などが残っていて、これには大日霎神社、和州雲門山大神宮」の文字が刻まれている。地名「ヒルメ」は祭神名にちなんだものであり、それが伝承される過程で「送迎」の因縁にからんで、転用されたものであると考えられる。
 尼寺は敏達天皇時代に創建された片岡僧寺に対する片岡尼寺のあった所である。同垣内の般若院には奈良時代の礎石があり、付近一帯からは古瓦が出土し、特に香塔寺の下からは実に夥しい古瓦や土器が出土するのである。なお、同地にある二基の古墳状の封土も全く古瓦の集積地であって非常に興味深い遺跡である。

今泉

 今泉は畑ノ浦、下寺などの垣内により成立する村である。今泉は今住と意字同語かとも考えられ、今井、今川というように新しく開いた所に残る地名ではなかろうか。たとえば今在家(当麻村)と新在家(当麻村)、今住(御所市)と新住(下市町)というように今とか新の文字を冠する地名は新しい地名であることを意味するものである。しかし今とか新の文字を冠しても大和の地名はかなり古くから残っているので案外古いものが多いようである。なお今泉には「イズミ垣内」という垣内名があるので、文字通り泉のあった所に発生した地名かもしれない。橿原市の今井とよく似た地名であり、さらに天理市の新泉とは全く同じ意味を持った地名として注目される。この泉のある所を俗にヨキ垣内ともいい、昔この泉の水を聖徳太子に差し上げるとヨキ水だといわれたという伝承が残っている。いまでもこの村には斧と名乗る姓が多いが、ヨキのことを斧ともいうのでその名があると伝えているのも非常に珍しいことである。下寺は上ノ寺、つまり雲門寺と対照的に呼ばれた垣内村である。

 葛下川の西側に沿う村である。俗に高村と呼んでいるが別に高所にある集落ではない。昔からこの付近は葛下川の洪水に相当悩まされたらしい。現在の高村は口碑によると馬見丘陵近くから耕作の都合で移ってきたともいわれているがはっきりしない。

地蔵堂(高村)

一説によると、現高村の少し南、葛下川と竹田川の合流する所に、今なお堂の前とかウス塚、古ヤシキという地名があるが、この付近に旧高村があったらしい。しかし竹田川の氾濫するのを恐れて、一部は旧下田村の北今市の地に移住し、一部は現高村に移ったといわれている。以前の葛下川は南上牧村の光専寺のすぐ西側を迂回して北流していたのを、今年になって治水工事を起し、現在の葛下川が完成され、例年の水害から逃れることができたわけである。現高村の東方にある石仏も実は旧高村の「古ヤシキ」の北側に祀ってあったのを移したという伝説が残っている。この竹田川からは石器が発見されるのは上流の二上山付近から流れてきたものだろう。
 この旧高村は旧幕時代、二箇所に移住したのであるが、これは郡山藩の苛税による圧政に苦しみ、古ヤシキ付近が米がよくとれるので山手や川沿いに移ったという話も聞いた。高村というのは石高の高かった所ではなかろうか。生駒郡の目安が石高の安かった所だという伝承があるが、少しおもしろい地名である。

平野

 いわゆる片岡丘陵に深く入り込んだ所である。少し平坦地をなした地形から発した地名であることに間違いない。ここには完全なる石槨を有する古墳(平野塚穴山古墳)があるので有名である。この平野の正楽寺の塚穴山古墳の東方に隣接して杵築神社が鎮座している。古来古墳築造に大きな技術を持っていた出雲族に関係深い同神社をこの地に祀っていることは実に興味深いことである。